俳優として活躍している河相我聞さんですが、ラーメン屋をしたり隠し子報道があったりと話題に事欠かない人です。
そんな河相我聞さんは同じ人と2度結婚したという噂や息子がジャニーズという噂もあります。
そこで今回は河相我聞さんの嫁はどんな人なのかや息子はジャニーズなのか、さらに兄は医師で病院の院長としてるようなので、兄や父親、母親も調べています。
河相我聞の嫁はどんな人?隠し子騒動もあったが
河相我聞の嫁は一般女性で出会いは劇団
俳優として長年活躍している河相我聞さんには、かつて結婚していた元嫁がいます。
お相手は芸能界の方ではなく、劇団で出会った一般女性です。
河相我聞さんがまだ10代のころ、所属していた「日本児童劇団」で知り合ったのが、後に結婚することになるその女性だったのです。
若い頃から一緒に過ごしていた2人は、自然な流れで恋人関係になり、河相我聞さんが16歳ごろに事実婚のような形で同棲生活を始めました。

河相我聞の20歳頃 【出典:河相我聞オフィシャルブログ】
そして、1994年、河相我聞さんが19歳のときには、長男が誕生し、結婚します。
河相我聞と嫁との子どもは公表されず隠し子に
当時は俳優として人気急上昇中の時期であり、ドラマや映画の出演も多く、事務所の意向で子どもの存在は長らく公表されませんでした。
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河相我聞の若い頃(右端)【出典:女性自身】
しかし1998年に週刊誌で隠し子の存在が報じられたことで事実が明るみに出て、河相我聞さん本人も「これで楽になりました」とコメントを出しました。
大きなスキャンダルとなり、注目を集める一方で、本人の誠実な姿勢も話題になりました。

なお元嫁は劇団に所属一般女性で顔写真や名前などの詳細は明かされていませんが、長年にわたり河相我聞さんと家庭を築いてきた大切な存在だったことは間違いありません。
河相我聞は嫁と2度結婚していた
河相我聞が復縁を申し出て2度目の結婚へ
河相我聞さんの結婚歴について調べてみると、実は「同じ女性と2度結婚していた」という少し珍しいエピソードがあることがわかります。
つまり、離婚と再婚を同じ相手と繰り返した「復縁婚」だったのです。
もともと河相我聞さんと元嫁は、劇団時代に出会ったことをきっかけに関係が始まりました。
お互い10代のころから支え合っていた間柄で、若くして子どもをもうけた後に、結婚するも、一度は別離することになったようです。
ですが、その後も河相我聞さんは元嫁のことを忘れることができず、何度も復縁を申し出ていたといいます。
そんな熱意が実を結び、1999年に2人は再び結ばれ、再度、入籍を果たします。
そして、すでに生まれていた長男とともに、2002年には次男も誕生し、家族4人での生活がスタートしました。

しかし、順調に見えた夫婦生活の裏側には、さまざまな問題があったようです。
河相我聞と嫁の2度目の離婚原因は「嫁姑問題」
河相我聞と元嫁は2度目の離婚をしますが、その大きな要因とされているのが、「嫁姑問題」でした。
河相我聞さんは当時、母親と同居する形での生活をしており、元嫁にとって想像以上に大変だったようです。
元嫁は母親への思いやりから、義母が夜にしている仕事を手伝いたいという気持ちで夜勤を始めました。
ところがその結果、昼夜逆転の生活となり、子育てや家事が思うようにできなくなってしまいます。
それに対して河相我聞さんの母親が不満を持つようになり、家庭内の空気は次第に悪化。
元嫁は精神的に疲れ果ててしまい、2008年にはついに家を出て別居という形を選びました。
その後も夫婦関係の修復を目指して努力を続けたようですが、結局関係は元に戻らず、2011年に正式に離婚が成立し。
約12年間にわたる結婚生活には終止符が打たれました。
このように、河相我聞さんは若い頃に一度結婚し、その後離婚。
しかし、どうしても忘れられなかった元嫁と1999年に再婚し、再び家庭を築きました。
ですが、2度目の結婚生活も長続きせず、2011年には再び離婚。
つまり「同じ女性と2度結婚して、2度離婚した」という少し複雑な経歴を持っているのです。

なお河相我聞さんは離婚後には2人の子どもの親権を持ち、シングルファーザーとして育児に励んできました。
河相我聞の息子はジャニーズなの?
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河相我聞(右)と2人の息子 【出典:三井住友海上】
河相我聞の長男は河相沙羅で俳優だった!
河相我聞さんには2人の息子がいますが、「どちらかがジャニーズ事務所に所属しているのでは?」という噂がたびたびインターネット上で話題になります。
しかし、結論から言うと、河相我聞さんの息子はジャニーズ事務所には所属していません。
まず長男の河相沙羅(かあいさら)さんについてご紹介します。
1994年に誕生した河相沙羅さんは、かつて映画監督でお笑い芸人である北野武さんが作った「オフィス北野」という芸能事務所に所属しており、俳優として活動していた時期がありました。
俳優の河相我聞(42)とその息子・沙羅(23)が22日放送のTBS系月曜名作劇場『はぐれ署長の殺人急行3』(後8:00)に親子そろって出演することがわかった。我聞は主人公の警察署長・北斗鉄太郎(恵俊彰)が直面する事件の重要参考人の下山浩介を演じ、その青年期として沙羅が起用され同じ役での“親子リレー”が実現する。同じ作品中での共演はこれが初めてのこととなる。
【引用:ORICON NEWS】
デビュー作は2011年のドラマ『IS~男でも女でもない性~』で、その他にも『ジョーカーゲーム』や『イタズラなKiss~Love in TOKYO』など、いくつかの作品に出演し、父親ともドラマで共演。
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河相我聞と息子(長男の河相沙羅)のドラマでの共演 【出典:みんなのマネ活】
ただし、2016年にオフィス北野を退所して以降は、俳優活動を一時終了。
その後は「映像を作る側」に興味を持つようになり、映像制作会社の代表として活動しています。
デビュー当初は俳優業に対して、「簡単かなぁ」と思っていたという沙羅だが、その後は大苦戦。「楽しく生きてきた人間なので、楽にできると思っていたけど、俳優としてやりたいことが今ひとつ見えてこない」と悩むことに。その後は「オーディションに100回落ちている。二次(審査)までも行かなくて」という状態になったという。そして、16年12月に所属していた芸能事務所を退社。「もう演じていないです」と現在は映画監督を目指し、父の演劇集団「バッカス」の脚本を執筆するなど修行中だという。
【引用:スポーツ報知】
現在は俳優業からは距離を置き、映像ディレクターとして新たな道を歩んでいるようです。
『YouTube 服部幸應チャンネル』
服部幸應がおしゃれカフェで料理と洋服を楽しむ!服部幸應の休日in鎌倉👕🥗
【Seagreen Cafe】 https://t.co/4fnWIC8eHn実は父にも協力していただき番組内で
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是非ご覧下さい! pic.twitter.com/8LNJIlRLO0— 河相沙羅/Sara Kaai (@Kaaisara) June 17, 2022
河相我聞の次男は河相竜跳で同じく俳優!
次に次男の河相竜跳(かあいりゅうと)さんについてですが、こちらも芸能活動の経験がある人物です。
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河相我聞の息子(次男の河相竜跳)【出典:三井住友海上】
本名は河相唯円(かあいゆいえん)さんで、2002年1月5日生まれで、スターダストプロモーションに所属し、「竜跳」という芸名で子役俳優として活躍していました。

河相我聞の次男河相竜跳の幼少期 【出典:クランクイン】
代表作には、2012年の『コドモ警察』、2014年公開の映画『ショートホープ』、そして2015年のTBSドラマ『アルジャーノンに花束を』などがあり、父親の河相我聞さんと同じ作品に出演したこともあります。
ただ、ここでもジャニーズ事務所との関係はまったくなく、所属していたのはあくまでもスターダストプロモーションです。
なお、2023年時点では河相竜跳さんの所属事務所からプロフィールが削除されており、現在の活動については公にされていません。
高校には進学せず、俳優として生きていくという選択をしたと河相我聞さんが語っていたことから、芸能活動そのものを今も続けている可能性はありますが、露出はかなり少なくなっています。
河相我聞の息子がジャニーズという噂が出た理由は?
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河相我聞と息子(長男が運転で次男は後部座席)【出典:三井住友海上】
なぜ「河相我聞の息子がジャニーズでは?」という噂が出たのかというと、これは河相我聞さんの息子たちのビジュアルの影響が大きいと考えられます。
父親の河相我聞さんも、若い頃は“昼ドラの貴公子”とも呼ばれるほどのイケメン俳優として注目されていました。
そしてその面影をしっかりと受け継いだ2人の息子たちも、整った顔立ちで「ジャニーズっぽい」と言われることが多かったのです。
また、俳優活動の中でバラエティ番組やドラマに出演していた際の雰囲気や立ち居振る舞いも、アイドル的な印象を与えたのかもしれません。
とくに次男の河相竜跳さんは子役時代に大勢のファンを持ち、そのビジュアルが「ジャニーズJr.にいてもおかしくない」とSNSなどで話題になっていたことも、誤解の原因になっていると考えられます。

河相我聞の次男の河相竜跳 【出典:三井住友海上】
とはいえ、河相我聞さん自身が「子どもたちの芸能界入りにコネを使っていない」と明言しており、それぞれが自分の意思で芸能の世界に入り、活動していたことは間違いありません。
河相我聞の兄は医師で病院院長!弟の俳優の道を拓いた!
河相我聞の兄は医師で病院の院長!名前は開流で高校に行かず医師に
俳優・河相我聞さんには、8歳年上の兄がいます。
名前は河相開流(かあいかいりゅう)さんといい、現在は埼玉県で「かあいファミリークリニック」という病院を開業し、院長を務めている人物です。

河相我聞の兄 【出典:HOSPITA.JP】
河相開流さんは、幼い頃からとても成績が良かったのですが、一般的な進学ルートとは違って、高校へは進まずに「大検(現在の高卒認定試験)」を経て、見事に埼玉医科大学医学部へ進学した努力家です。
その後、1993年に卒業し、埼玉医科大学病院で研修医としてキャリアをスタート。
1995年には春日部市立病院で外科勤務となり、1998年には埼玉医科大学病院の第二外科に復帰しました。
2003年以降は、消化器外科や救急部門を兼任し、現場での経験を積み重ねていきました。
そして、2011年に「かあいファミリークリニック」を開院。
以来、地域の人々に信頼されるホームドクターとして活躍を続けています。
院長としての肩書だけでなく、「医学博士」としての肩書もあり、学術面でもしっかりとした実績を持っていることがわかります。
この「かあいファミリークリニック」は、埼玉県入間郡毛呂山町に位置し、消化器内科や内科を中心に診療している地域密着型のクリニックです。

河相我聞の兄が病院長を務める「かあいファミリークリニック」【出典:かあいファミリークリニックHP】
地元の人々の健康を支え続ける存在として、長く愛されています。
実際に河相我聞さんも、自身のブログやインタビューなどで「兄は病院を開いていて医者をしている」と公表しています。
8歳上の兄は僕なんかとは比べ物にならないくらい優秀だったのですが、高校を中退したんです。当時、兄は両親に反発していて、部屋の入り口にバリケードを築いて一切の接触を拒むほどの荒れっぷりでした。それでも、もともと頭のできがいいので、大検を経て地元の埼玉医科大学に入学し、医師になりました。
【引用:yomiDr.】

兄・河相開流さんとの関係もとても良好なようで、子どものころにはケンカもあったそうですが、常に弟思いの優しい兄として河相我聞さんの人生に大きな影響を与えてきたことがうかがえます。
河相我聞の兄が弟の俳優への道を拓いてくれた!
河相我聞さんが小学校3年生のときに不登校になった際、河相開流さんが「学校行かないならこれやってみたら?」と、劇団のチラシを渡してくれたというエピソードがあります。
この一言が、河相我聞さんが俳優という道に進む大きなきっかけになったのです。
――小学生の頃から、子役として活動していたそうですね。芸能界に入ったきっかけは?
同世代の子どもたちと一緒に同じことをやるのがとにかく苦手で、小3の終わりごろから不登校になりました。母は学校に行けとは言わなかったけれど、「だったら、何か他のことをやりなさい」と。兄の勧めで児童劇団に入りました。
【引用:yomiDr.】
当時、劇団に通うには決して安くない費用がかかりましたが、兄や祖母、母の支えがあって通えることになり、現在の河相我聞さんの活躍につながっていったのです。
また、河相我聞さんはテレビ番組『徹子の部屋』に出演した際に、「父の教育の成功例が兄で、自分は失敗例」とユーモアを交えて話したこともあります。
それほどまでに、兄・河相開流さんが努力の末に医師となり、病院の院長にまでなったことを誇りに感じているのでしょう。
兄弟それぞれ違う道を歩んでいながらも、互いに刺激を受け合い、尊敬し合っていることが伝わってきます。

特に、河相開流さんのように、高校に通わずに医師になったというストーリーは、今でも多くの人に勇気を与えるエピソードです。
河相我聞の父親はどんな人?
河相我聞の父親は事業で成功した人物!父親が70歳の時の子だった
河相我聞さんの父親は、非常に個性的で謎めいた人物として知られています。
まず驚くのはその年齢で、河相我聞さんが生まれたとき、父親はなんと70歳でした。
すでに高齢だったこともあり、学校の行事には参加できないことが多く、河相我聞さん自身も「授業参観や運動会に父が来ることはなかった」と振り返っています。
父親の名前は「トシオ」さんといい、福井県出身で、地元では“知らない人はいない”と言われるほどの実業家だったといいます。
――どんな家庭で育ったんですか?
「実家は埼玉です。父は明治生まれの人で、僕は父が70歳のときの子供なんですよ。あとは、母と兄と。父と母は籍を入れていなかった。認知はしてましたけど。母親はあんまり父親のことは教えてくれなかったから、よくは知らないんです。福井の人で、事業で成功したそうです。地元では知らない人はいないって言ってました。
【引用:livedoor News】
具体的には、玩具店やおもちゃの問屋を経営していたそうで、事業はそれなりに成功していたとのことです。
河相我聞さんが若い頃に出演した新聞記事やブログでも、父親が商売をしていたことが何度も語られています。
河相我聞の父親は実業家も家はボロボロだった?
ただ、河相我聞さんは裕福な家庭でのんびり育ったという印象とは少し違います。
河相我聞さんのインタビューによると、「家はボロボロだった」「父はゴミを拾ってきて家に持って帰るような人だった」と話しており、実際の暮らしは質素だったようです。
父親のお金に頼る生活ではなく、母親が自分で仕事をして家計を支えていたとも語っています。
つまり、父親が実業家で資産を持っていたとしても、それが家庭に豊かさとして反映されていたわけではなかったのです。
また、河相我聞さんは、父親について「教育熱心な人だった」とも語っています。
幼い頃から部屋の壁には漢字や地図が貼られていて、自然と勉強する環境が整えられていたそうです。

しかし、河相我聞さんは小学校3年生から学校に行きづらくなり、勉強から遠ざかってしまったこともあり、父親の教育方針とうまく噛み合わなかった一面もあったようです。
河相我聞は愛人の子として育った!父親は母親と籍を入れていなかった
河相我聞さんは法律上の婚姻関係にある家庭で生まれたわけではなく、いわゆる「愛人の子」として育ちました。
父親には別に本妻がいて、河相我聞さんの母親とは籍を入れていませんでした。
認知はされていたものの、家族として一緒に過ごす時間は少なく、河相我聞さんが小学校6年生のときに会ったのが最後で、その後再会したのは父親の葬儀の日だったそうです。
そんな父親ですが、河相我聞さんの俳優としての活躍は見ていたようで、昼ドラ「天までとどけ」で人気を得ていた当時に放送を観ていたという話もあります。
本人は父と深い交流がなかったとしながらも、父親が息子の仕事を応援してくれていたことを知っていたのかもしれません。
父親の死は、河相我聞さんが17歳の頃でした。
資産があったため、福井にいる本妻側の家族と遺産相続をめぐって揉めることになったそうですが、河相我聞さんはまだ若かったこともあり、「遺産放棄していい?」と母に相談され、「いいよ」と答えてしまったと笑って話しています。
このように、河相我聞さんの父親・トシオさんは、実業家でありながらも、非常に個性的で、少し謎めいた人生を送っていた人物です。
河相我聞の母親はどんな人?
河相我聞の母親は夫に頼ることなく2人の子供を育てた!
河相我聞さんの母親は、広島県出身の一般女性で、メディアに登場することはほとんどありませんが、インタビューやブログの中で、河相我聞さん自身がその存在についてたびたび語っています。
まず、河相我聞さんの母親は、父親と法律上の婚姻関係にはありませんでした。

つまり、河相我聞さんは「非嫡出子」として育てられたということになります。
父親には本妻と家庭があったため、河相我聞さんと母親は、別の場所でひっそりと生活をしていたのです。
それでも、母親は堂々と河相我聞さんとその兄を育て上げ、周囲に負けない強さを持っていました。
河相我聞さんの母親は、夫(本妻のいるパートナー)に頼ることなく、自分自身で仕事をしながら2人の息子を育てました。
家はとても古くてボロボロで、お世辞にも裕福とはいえない環境だったそうです。
しかし、そん中でも母親は手を抜かず、子どもたちにしっかりとした生活を与えようと努力を続けてきたのです。
上述のように、河相我聞さんが小学生のころ、学校に通えなくなった時期がありました。
なお、当時、兄の河相開流さんが「学校に行かないならこれをやってみたら?」と劇団のチラシを持ってきたことがきっかけで、劇団に通い始めることになります。

費用のかかる劇団への入団を許したのも、母親の理解と支援があってこそで、おばあちゃんとともに、その費用を出してくれたと言われています。
河相我聞の母親は芯のある性格!
河相我聞さんがインタビューで語っていたエピソードの中には、こんな話もあります。
父親が亡くなったとき、葬儀には本妻の家族とともに、母親と兄も出席することになりました。
複雑な家庭環境の中での葬儀ということで、相当気まずい場面だったと想像されますが、母親は「普通にしていればいいのよ」と落ち着いていたそうです。
この言葉からは、強く、芯のある女性であることがうかがえます。
また、母親は、2020年の取材では「77歳になりましたが、元気にしています」と河相我聞さんが語っており、母親と河相我聞さんは元々かなり折り合いが悪かったそうですが、現在は改善されてきているようです。
「生まれた惑星が違うんではなかろうか」と思うぐらい考え方の折り合いがつかない母との関係がまさかここまで変化するとは思わなんだ。共通言語という事を深く考えた。https://t.co/j9HqEyqrQy
— 河相我聞 (@gamon0524) April 13, 2020
なお河相我聞さんは2007年ごろから母親と同居しています。
河相我聞さんは、当時所属していた事務所と揉めて給料が支払われなくなり、自宅の家賃と母の住む一軒家のローン、さらに息子たちの学費なども払っており、生活が厳しくなると思い同居したとのことです。
そこからもしばらく、別々に暮らしつつ時折母の元へ行き来していたのだが、ある時私が当時所属していた会社と揉めて、長期間にわたって給与が支払われない暗黒の事態になってしまった(これも、今となっては壮大で面白い話になるのだが、話が脱線するのでここではやめておこうと思う)。そんな中で自宅の家賃と母の住む一軒家のローンを払い、さらに息子たちの学費もかかるとなるとさすがに生活が厳しくなると思い、母にお願いして一軒家に同居させてもらうことにした。つまり、思いがけず同居することになってしまった。
【引用:tayorini】
河相我聞のプロフィール

河相我聞 【出典:ナタリー】
プロフィール | |
名前 | 河相我聞(かあいがもん) |
所属 | ウィーズカンパニー |
出身 | 埼玉県与野市(現:さいたま市中央区) |
生年月日 | 1975年5月24日 |
身長 | 177cm |
体重 | 不明 |
血液型 | A型 |
学歴 | 与野市立大戸小学校(現:さいたま市立大戸小学校)→与野市立南中学校(現:さいたま市立与野南中学校)転校→浦和市立常盤中学校(現:さいたま市立常盤中学校)→日本芸術専門学校中退 |
趣味、特技 | 料理、漫画、ゲーム、ピアノ、ドラム |
河相我聞さんは1975年5月24日生まれ、埼玉県蕨市に生まれたのち、与野市(現・さいたま市)で育ちました。
父親は福井県、母親は広島県出身で、父は玩具店などを営んでいた実業家でしたが、両親は籍を入れておらず、認知だけされていた複雑な家庭環境でした。
河相我聞さんの芸能界デビューは1991年、TBSの人気ドラマ『天までとどけ』での信平役。
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「天までとどけ2」に出演していた河相我聞(最後列左)【出典:スポニチアネックス】
1994年には『時をかける少女』で内田有紀さんと共演し、同年には『青春の影』で主演も務め、俳優として一気に注目を集めました。
以降も『未成年』『ハンチョウ』『喰いしん坊!』シリーズなどに出演し、テレビドラマを中心に幅広く活動します。
俳優としてだけでなく、タレント業や音楽活動、さらには飲食業にも挑戦しました。
2005年には立川に「ラーメン我聞」という店をオープンし、自ら厨房に立つなど本格的に運営していましたが、事務所トラブルや経理問題などにより2007年に閉店。
それでも、自らの興味を追求する姿勢は変わらず、「思い立ったらすぐに行動するタイプ」と本人も語っています。
さらに中学時代からは一人暮らしを始め、友人が出入りする自由な生活を送っていたこともあり、「我が道を行く自由人」として知られています。
近年では高卒認定試験に挑戦し、ブログや動画制作などの活動でも評価を受け、本も出版するなど枠にとらわれない多才な人生を歩み続けています。
帰り道、家の近くの本屋に行ったら私の本がわかりやすい所に積んであった。ありがとうございます。
嬉しくて少し立ち読みしたら、面白かったので、買おうかなぁ。
失礼、自画自賛が好きなものでして。 pic.twitter.com/7Syp5wrkIK— 河相我聞 (@gamon0524) September 1, 2017
河相我聞まとめ
昨日、ラジオの収録に行ったら、村上ポンタさんと偶然お会いしました。
嬉しい。 pic.twitter.com/LfIKZknkr8— 河相我聞 (@gamon0524) December 22, 2017
河相我聞さんは、劇団時代に出会った一般女性と若くして結婚しました。
16歳で同棲を始め、19歳で長男が誕生。
その後、一度は離婚したものの1999年に復縁して再婚、次男も生まれます。
しかし嫁姑問題をきっかけに関係が悪化し、2011年に再び離婚。
2人の息子の親権は河相我聞さんが持ち、シングルファーザーとして育児に励んできました。
長男・河相沙羅さんは一時俳優として活動し、父子共演も果たしましたが、現在は映像制作の道へ。
次男・河相竜跳さんも元子役で芸能活動をしていましたが、現在の動向は不明です。
「息子はジャニーズ?」という噂もありますが、実際にはどちらも別事務所に所属していました。
兄の河相開流さんは高校に通わず大検を経て医師となり、現在は埼玉でクリニックを開業している優秀な人物。
小3で不登校だった河相我聞さんに劇団の道を勧めたのもこの兄でした。
父親は70歳の時の子であり実業家でしたが、家庭環境は複雑で、母親と籍は入れておらず“愛人の子”として育ちました。
母親は女手一つで2人の子を育て上げた芯の強い女性で、現在も元気に過ごしているとのことです。
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